RPG、性格悪いな〜と思った話
知り合いの子供が小学校一年生のとき、生まれて初めて自力で独学でロールプレイングゲームをやり始めたんだけど早々に詰んだそうで、
にっちもさっちもいかない、どうしたらいいのかというので話を聞いてみると、CPUに話しかけたり
マップの探索なんかの、そういう「お約束」は一切していないという。
初めてだとわからないものなのかとその時は驚いて、町の人に話しかけてヒントを貰う、家探ししてアイテムを貰う、というRPGをやる上で自分が「当たり前」だと思っていたことを伝えて
それでその子は大変驚いて、「やってみるよ」と話したがそれきり会っていないので、そのあとのことはわからない。
ただ「初めてだと単純にわからないんだなあ」なんて漠然とした感想が記憶に残っていたのだけど、自分が最近またRPGの新作をやり始めて、
その記憶が「そういうことか!」と厚みを持った感覚へと変わっていった、という話。
なんやかんやあって冒険に身を投じることになる。とりあえず言われるまま進む。不意に操作が出来なくなる。ムービー。イベントである。
町の人が慌てて話していることには、町の中央広場で問題が起きているらしい。主人公に、すぐに広場に行けと言う。
さあここで、冒険者が取るべき行動。RPGのプレイヤーとなった人が取るべき行動。
RPGのプレイヤーとなった私は、「広場」に背を向けて走り出す。「広場」に入ったらイベントが始まってしまうので。ここに戻れる保証はない。CPUのセリフに変化が起きるかもしれない。そう思いながら探索を開始する。
「広場」に近づけば踵を返し、くまなく歩き、落ちているものを漁り、他人の家に上がり込み、漁り、1人残らず話しかけ、満足してから、ゆうゆうと「広場」へ向かうのだ。
初めてのRPGをプレイした彼は、「急いで広場に行け」と言われれば、まっすぐ「広場」へ向かう。話は聞くが、自分から通行人に話しかけたりはしない。当然だ。いまこの世に生きる一般的な小学生として、至極まっとうな行動だった。
その点に思い至り、「あ、RPGって指示を無視しつつ全員に話しかける、コミュニケーションの取り方が現実をうまく生きる方法と対極なんだなあ」と気づいたのだった。
で、RPG、性格悪いな!? と思ったので。なるほどな〜 という気づきとともに書いておく。おわり。
早乙女姉妹は漫画のためなら!?第49話を読んで感動した
かつて偉大な先人の発明には、瞳の中の描き込みや水滴に反射する風景などに女性器を隠し込む手腕があった。
ジャンプ+で連載中のお色気コメディ、早乙女姉妹は漫画のためなら!?(以下“早乙女姉妹”とする)では、鍵穴、長音符、葉脈などのモチーフを女性器に、ボタンをアナル、紐のほつれたフサを陰毛に見立て、それらを介して読み手がそこに存在するものを浮かび上がらせることができるような手法を駆使していたが、なんらかの問題があったのか、いつしかアプリ版では「白塗り」され、ウェブ上では限られた時間帯のみ無修正の作品が公開されることとなった。
連載開始から過激な表現は加速し続け、さまざまな方法で「修正」を躱しては「画面ほぼ真っ白に修正」されるなどし、一時期はアプリ版からは抹消されたかと思われた早乙女姉妹。そしてついに白塗り修正に用いられる「謎の光」これを早乙女姉妹は“演出”へと昇華させるに至ったのである。
登場人物には、内面が女性、肉体が男性のキャラクターがいる。彼(彼女)が今日のテーマの根幹である。
彼は社会的な性別に合わせた服装で生活をしていたが、ある人物にその内面を見抜かれ、夕方の、外の光が優しく射しこむ部屋で、「あなたがあなたらしくいられる格好をしなさい」と啓示される。そのとき、それまで描写されていた彼の乳首に一筋の光が被り、彼の乳首は「白塗り修正」され隠される。
アプリ版の規約では「男性の乳首」は描写可能であり、「女性の裸」は隠される対象である。そこを演出に取り入れた。彼が「自分らしく」、つまり「女である」ことを認めたことによって、彼は彼女へと変貌し、その乳首は「規制されるべき女の乳首」となったのである。
修正を逆手に取り、ただ一筋の光で、1人の人間の生き方の変化を描き切ったのである。漫画表現に、不可能なことなどないのだ。 ぼくはこの早乙女姉妹第49話で、漫画の可能性の未来は無限に続くことを実感し、感動した。ぼくはこれからも、漫画を読む。ありがとう早乙女姉妹。
フィクションを楽しめない
人間関係を描いた連続ドラマ、やきもきしたりいたたまれなくなったりしてすごく疲れてしまうので見られない。
展開を楽しみに思う気持ちや問題が解決したカタルシスよりも疲労が大きいし、なんなら見る前からグッタリしてしまう。
(しかも俳優にも興味が湧かず、容姿にときめいたりもできない。だって、知らない人だし…)
理不尽に殺されるシーン、恐ろしい目にあうシーンが怖い。
画面の向こうのことと割り切れず、必要以上に没入してしまい恐怖で動悸がするし、特に自分に子供が出来てからは子供が傷つくシーンはもう、なんとかしてフィクションだということを反芻し続けないと精神の安定を保てない。
遊園地にある体験型のアトラクションが楽しめない。恐怖しかない。
乗り物が暴走する、怪物に襲われる、超人同士の乱闘に巻き込まれるといったシチュエーションを体験するアトラクションが怖い。
大迫力の映像にあわせ、座席が揺れ顔に風が当たるだけだよと言われても、頭の中は、死にたくない、怖い、痛いのは嫌、逃げたい、どうしてこんな目にあうのと、パニックに支配され震えと涙が止まらなくなる。
絶叫マシーンは以ての外。死にたくないよ!
君の名は。
映画観てきました。以下の文章に映画のネタバレを含みます。賞賛する内容ではありません。
新海誠氏の作品は初めての鑑賞です。
*****
合わなかったです。
たくさんの方が感想を書いていますので、個人的に苦手だったところ、違和感が拭えなかったところだけ簡単に挙げます。
*オープニングアニメーションによるネタバレ
もうこれが決定的にだめでした。がっくり来てしまった。始まってそうそうネタバレのオンパレード。
プロモーションで、「出会うはずのない2人の高校生の精神が入れ替わる」というところまでは判っていて、そういうテーマの作品を観に行った。
そこであのオープニング、2人の年齢が違う、生きている時間軸自体が違うという、物語のキーとなる部分が明かされてしまう。
作中突然髪を切った姿に、ときめくことも驚くこともできなくなったし(そもそも友人らがあんなに驚くのも違和感がある。まあバッサリいったもんだが、あそこまでわなわなと震えるものだろうか?)
髪を切った姿を見せる前に、首から上を映さない演出がこれで台無し。
また、成長した姿が映されたことで、ラスト、三葉が救われたのかどうかハラハラすることができなかった。(これについては、そういう点でハラハラさせる目的はハナからなかったのかもしれない)
*音楽がしつこい
日本語歌詞で心情をモノローグとして伝える手法なんでしょうか、映像と演技でじゅうぶんにわかるそれを言葉にされるとやや怠くなりますし、
BGMではない音量ではっきりと聴こえる日本語のボーカルは多用されるとウルセーな!という思い。
思い入れのあるバンドならいいのかもしれないけど、歌を聴きに行ったんじゃなくて、物語を観に行ったんだよ。
*入れ替わったときに手首の組紐に気づかない。
途中、あれ?組紐?と思ったのですが。何故本人たちは触れなかったのか。
もしかして寝る時外していて、瀧イン三葉時には着けてない?三葉イン瀧は髪を結うのに紐を使ってはいないが、鏡台の中は見なかったのかな。この点はわたしの見落としなら、これは流してください。
*祭りの出店の電力
おのおの発電機を用いるのでは…?
*三葉の父はかつて妻の言葉を「妄言」と思っていたのか?酷くない?
小説版で補完されてるのかもしれませんが、映画としてひとつの作品として、映画だけ観ればわかるように纏めてほしい…。
*メモや日記があるのにも関わらず「宮水神社」という決定的なワードで検索しない瀧
なぜ?としか言えない。
*瀧の家族は?
あまりにも希薄ではないか。これもなんかあるのか。
*瀧の旅先での先輩らの行動
旅先で書置きだけ残し単独でいなくなり、何処へ行ったかさっぱりわからない。
前日に起きたことの異常性や瀧の様子からして、最悪の事態を想定してもおかしくないと思うのだが…。
あの状況で捜索願も出さずに2人はあっさり東京へ帰ったのか?ちょっとうすら寒い。捜しまわるとか、何らかのアクションを起こしたのなら相当大変だった筈だが、
再会した先輩が語る当時の様子の話ぶりからすると、サッサと帰ってそうで怖いよ。
*邂逅時のやりとり
これはもう本当に個人的な好みなんで言いがかりですけど、罵って吹き出して…イチャイチャしたやりとりが受け付けなかった。おまえら500人の命運握ってんだぞ…
*わたしの共感性羞恥
これも言いがかりです。入れ替わった2人のまわりの人たちの様子がもう居た堪れなくて、序盤はずっと辛かった。
しかも夢じゃないと気づいたあともよく登校し続けたなあ。自分なら恥ずかしくて、入れ替わりの日は引きこもるように指示しそう。バイトは何とかなったけど、まさか巫女の舞やらされやしないかと思ったら、椅子に座っているのすら辛かった。やらされなくて良かった…。
*****
だいたいこの辺が引っかかって、物語に没入できないまま終わってしまいました。
あとはもうガジェットとして、スマートフォンさえ存在しなければ、例えばもっと離れた時代の2人にして、絶対に逢えない切ない物語も作れたんだろうなあという思いもあります。
これこそ本当に個人的好みですけどね。逢えないラストが良かった気がします。
**1/16追記メモ
物語を楽しむ、というのは、フィクション、つまり主軸になる大きな嘘、いわゆる設定を、無条件で肯定するところから始まる。
そのまわりを自分の知っているこの世界の現実、リアリティのある描写で固めることでフィクションは本当に存在するかのような説得力を得て、わたしたちは感情移入できる。
精神が入れ替わること、彗星を引き寄せる土地、そして人口密集地の東京で巡り会える。そういうのはそうでないとお話にならない。そこに突っ込むのは例えばウルトラ怪獣の身体の構造に突っ込むようなもんで、それは私としては無粋で野暮だなあと思う。
ただこの映画はいわゆるご都合主義が多すぎて、どれもこれもが嘘になってしまっている。主軸の嘘を支えるべき現実が、嘘のほうに合わせて綻んで歪んでいる。だからリアリティを感じられずに物語に没入できなかったんだ。
この映画、同じ材料で、脚本をもっと煮詰めて、もっと面白く出来たんじゃないかなあ。
ポケットモンスターの思い出と、これからのポケットモンスターとの暮らし方
ポケットモンスター世代である。どんぴしゃり、アニメが始まった年に10歳、主人公のサトシと同い年。原案・田尻智氏の出身地であり、サトシの育った町の舞台のモデルとも言われる東京都町田市で育ったわたしは、されどポケットモンスターを全くプレイすることのないまま大人になった。